アートを浴びる

2022年07月01日

英国留学時代、住まいを何度か点々としたが最後に落ち着いたのはサウスケンジントン寄りのチェルシーにあるStudio(日本でいうワンルーム)だった。Victoria and Albert Museum(V&A)から徒歩5分。Solicitor(事務弁護士)の大家さんはルームキーの引き渡しの際に「勉強に疲れたらV &Aに行ってリラックスしたらいい。あなたの学生証ならReading Roomのカードを申請できる。そこで論文を書けばいい」と言い残してにこやかに去っていった。(read more...)

リラックス目的で美術館やギャラリーに行く。それはすでに実践していることだった。英国ではNational GalleryはじめTate、Tate Modernなど、無料開放をしている施設は多い。私のようなフラフラ落ち葉のような留学生にとってふらっと立ち寄って、さまざまな年代のさまざまな技法のさまざまな表現のアートを浴びるのは恩恵のひとつだった。「芸術に触れる」。当初は現実逃避だったはずなのに、次第に目的のない使命感に帯びた「滝行」のようになっていった。インスタレーションの面白さを知ったのは現代アートの専門美術館、Saatchi Galleryだ。衝撃を受けた。以来、未知の作品が生みだす空気感に包まれるために何度も足を運んだ。

V &Aは世界中のアートとデザインの歴史を包括するイギリスの国立博物館だ。絵画・彫刻・金属加工・家具・ファッションなどの膨大なコレクションが常設展示されており、何度通っても見飽きる事はない。私のお気に入りは中世ルネッサンスの彫刻のギャラリーだった。とくにイタリアを中心とするヨーロッパの代表的な彫刻や建造物の石膏の複製(カスト)が立ち並ぶエリアは妙に落ち着く場所であった。ミケランジェロのダビデ像など本来ここにあるはずのないフィギュアたちが国境も時代も越えて一堂に会している。V&Aのカストコレクションは、グランドツアーに赴いたイギリス貴族の子弟のように海外に出掛けられない人々に向けて集められたものだ。その人気は19世紀半ばから後期にかけて頂点に達したというが、その醸し出される独特な空間はインスタレーションの走りといっても良いのかもしれない。

さて、大家さんオススメのReading RoomとはV&A内のNational Art Libraryにある。オンライン申請を経て手続きを踏めば3年間有効のリーディングカードを作成してもらえる。このカードがあれば閉架書庫にある貴重な資料の閲覧・複写が可能である。また、V&A館内ではwifiが利用できるのでパソコンを持ち込んでの作業も可能だ。

私の修士論文のテーマは「ユニバーサルコンテンツ」でデザインと関係がないわけではないが、ガチガチに関係があるわけではない。しかし、V&Aはおおらかに門戸を開いてくれていた。これはV&Aの基本理念に、デザイナーや消費者の創造性を刺激することがクリエイティブ・デザイン産業の振興につながるという信念があるからだ。

美しい建築、高い天井、壮麗な書棚。静寂のなかでは自然と背筋が伸びた。スタッフの方々もとても親切で資料請求にはアドバイスを交えながら丁寧に対応してくれ、この資料の閲覧ならばあのデスクがいいわよと教えてくれたりもした。作業の手を止めガラス窓の光に目を遣りながら、そういえばMuseumの語源はムセイオン(学堂)のことだったなと古代に思いを馳せることもあった。紀元前3世紀アレクサンドリアに建設されたムセイオンには巨大な付属図書館があったという。

あのとき、ある一定期間、ほぼまっさらな状態でアートを浴びた。その経験はいまも宝物になっている。

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