リサーチが名作を生み出す

2022年06月22日

私が学んだ英国の大学院、City,University London(現City, University of London)は公立の研究大学・大学院で、ロンドン市との関係が深く通称は「シティ」。社会人経験者が自分の”メジャー(専門分野)”を強化するためにここで「学び直す」傾向も強い。とくにJournalismの 分野は英国最大規模の教育機関といわれ、国内外で活躍する数多くのジャーナリストを輩出している名門で、「出版社を辞めてシティに留学する」というと「ジャーナリズムを勉強するの?」と問われたものだ。シティのコースの中で私が修士課程で選択したMedia and Communicationsの分野はまだ”新顔”という印象だった。(read more...)

このコースを選んだ理由は長年そのフィールドで働きながら「メディア・コミュニケーションズ」というものがよくわかっていなかったからだ。当時、出版業界では「電子書籍」がまるで黒船のように捉えられていて(あくまで一部の間で)、さらにその背後にはIT技術の進化とともに新しいエンタテインメントが生まれようとしていた。

新しいものに出会ったとき、人の反応はさまざまだ。立ち向かう人、目を背ける人、逃げる人......。私の場合は「ちょっとよくわからないので中まで見させてもらいます」という態度になりがちだ。まずは相手の「内在論理」を理解してからでも遅くはない。'Curiosity killed the cat'(好奇心は猫をも殺す)タイプともいえる。

メディア・コミュニケーションズとは何か?という話はここでは置いて、大学院留学を目指してコースを選択するとき、少し心が揺れたことがある。University of East AngliaのCreative Writingの修士課程コースだ。前回、「私は『エディター脳』」という趣旨を書いたが、なぜ「クリエイティブ・ライティング」に惹かれたかというと理由はシンプルで、かつて作家のカズオ・イシグロ氏が在籍していたからだ。極めてミーハーなファン心理である。

どうしたらあんなに美しい文章が書けるのだろう。本人の資質と努力が一番大きいということはわかるのだが、氏が学んだメソッドを知りたい。これもやはり「エディター脳」からの発想だったかもしれないが、自分の”メジャー”から離れていくし、そもそも英語力が追いつかない。なんとか滑りこんだとしても待っているのは死に物狂いで石にかじりつくような”地獄の日々”。さすがのCurious cat(好奇心いっぱいの猫)もこれは蛮勇と知っていた。

とはいえ、せっかく英国にいるのだし一度は氏にお目にかかってみたい。遠目でもいいから……と思いながら、シティの修士課程に進み、半ゾンビ生活に突入した。それから月日が流れ、修士論文の審査を経てコース修了が決まった1カ月後の2014年12月初旬。知人から「ガーディアンのブッククラブでカズオ・イシグロのトークイベントがあるので行きませんか?」とお誘いを受けた。ノーベル賞受賞前とはいえ、英国ブッカー賞作家のプラチナチケットだ。急遽行けなくなった方が「それならば」と私の存在を思い出してくださったのだ。

当日の夜は、まるで暗い箱から光射す明るい場所に急に連れて来られたような状態で、ステージ上のイシグロ氏がキラキラしていて「エディター脳」もぶっ飛んでしまった。記憶ももう「音声なし映像」になっているが、ガーディアン本紙でほぼ同内容の寄稿が掲載されている。

上記の記事の和訳は一部、クーリエのサイトで読むことができる(全文は有料)。

名作『日の名残り』の創作秘話が語られていて氏が「クラッシュ」と呼ぶ「缶詰期間」の話が大変興味深いが、小説の執筆に取り掛かる前のリサーチ(調査)についても重要な記述がある。クーリエの記事から引用しよう。

クラッシュ期間に入るまでに、私がすでに相当の「調査」をしていたことは述べておかねばならない。英国の召し使いの書いた本や彼らについての本、第一次・第二次世界大戦間の政治や外交政策についての本、ハロルド・ラスキの『紳士たることの危険』といった当時の冊子や論文も大量に読んでいた。

近所の本屋の古書コーナーを漁り、1930〜50年代の英国田園地帯のガイドブックを探しもした。

常々思っているのだが、小説をいつ実際に書き始めるか、いつ物語を組み立て始めるかの決断はきわめて重要だ。

文章を書き始める前に、どの程度の知識を持っておくべきか? 取りかかるのが早すぎても遅すぎてもいけない。

大量のリサーチと知識を持つタイミング。リサーチなくして名作は生まれない。改めてその重要性を認識できたこと。それは大きなギフトだった。

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